ゆきさと日記

日々の日常、仕事や趣味なこと。描いてます

【スノーボード】をするなら知っておくべきレジェンド

クレイグ・ケリー

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クレイグ・ケリー。この名前に聞き覚えがあるのは40歳くらいのスノーボーダー、あるいはフリースキーヤーかもしれない。そこで小誌の読者には、BURTON JAPANが2007年に国内企画したブランド誌「BURTON BOOK」でショーン・ホワイトとテリエ・ハーカンセンに特別インタビューをおこなったときの裏話からはじめよう。

 インタビュー慣れしている相手に対して限られた時間でインタビューを敢行するテクニックとして、あらかじめ相手が用意している優等生な答えを放棄させ、頭のなかを「真っ白」にしてからはじめるのが効果的である。そのために、簡単な質問をインタビュー前の軽い準備運動と称して、相手に10個の質問を投げかける。ルールは簡単で、こっちが出す質問に対して直感的に「即答」するだけ。西麻布の撮影スタジオで収録したショーン*2とテリエ のインタビューもこの方法でウォームアップスタートした。このときの質問のひとつが「ヒッピー」で、テリエの返した答えが「ヒッピー? クレイグ・ケリー(笑)」だった。テリエはこの頃のグローバルライダーのなかで数少ない、クレイグと一緒に何年も過ごしたライダーだったのだ。

近年、バンクドスラローム*3 で再び注目されるワシントン州のマウント・ベイカーをホームにしていたクレイグ。彼と最初に会ったのは1988年、コロラド・ブリッケンリッジの駐車場。この前のシーズンまでSIMSに在籍していた彼は、BURTONへの移籍の真っ最中だった。

 この時代のスノーボード業界は産業界というには恥ずかしい状態。トップライダーでもシグネチャーのロイヤリティはロクに支払われず、旅費さえやっとこさ出してもらえるような時代。そんななか、フリースタイルのトップブランドに君臨していたSIMSから東海岸のアイシーでレースのイメージが強いBURTONへの移籍は、信じられない選択だった。

80年代、当時のワールドカップは種目総合で出した順位を重視していて、誰もがレースとフリースタイル種目をこなしていた。クレイグは、この前年に西海岸のフリースタイルブランドでは決して勝てないと言われていた東海岸にあるストラットンで行われたレースで優勝し、USオープンの歴史を塗り替えていた。このあたりが、BURTONのレースメインだったイメージからフリースタイルへと変わりはじめた転換期だったのだ。このとき、先頭に立ち最初に「B」の旗を振ったのがクレイグだった。僕は個人的に、ジェイク・バートンとも何度かこの頃の話をした。当時、変化しはじめたスノーボードシーンのひとつがフリースタイルであり、後にクレイグが牽引したフリーライディングというシーンだ。このころジェイクは、スノーボード市場の広がりに対して単なる契約ライダーでなく、マーケティング的な視点を持ち合わせ、同時に商品開発にも具体的な意見を出すプロダクトスーパーバイザー*4 を探していた。この相思相愛のような関係は見事に功を奏した。

 クレイグは80年代後半から90年代初頭にワールドカップを4年連続で優勝すると、あっさり大会というステージに見切りをつけて、ビデオ撮影を中心としたフリーライディングという他人とは競わない自由な価値観を新しく世界に提唱した。80年代後半からスキー映画の巨匠、ウォーレン・ミラーに認められ、90年代初頭にはフリースキー映画界の異才、グレッグ・スタンプとも仕事をし、当時新しいメディアであったアクションスポーツビデオを通してスノーボード市場の拡大に貢献し、多大なる影響力を持った。しかも、その実像はかなりハードコアでパンクな精神の持ち主だったのだ。マイク・ランケットが「やんちゃ」を表面に出していたのに対して、クレイグは表面的に優等生を演じていたが、行動はハードコアを地でいった。

 最後にクレイグらしいエピソードで締めくくりたいと思う。BURTON JAPANが日本に設立される遥か以前、国内総代理店としてある商社が販売をしていた。90年代に入ると広告宣伝の一環として、当時のトップライダーたちがこぞって来日し、各地でサイン会やビデオの上映会が行われた。当時の国際空港は主に成田空港を利用していたので、外国人ライダーたちはキャンペーン終了後に成田市内のホテルに最終日の宿泊を余儀なくされた。すると、キャンペーン当日の朝に僕の自宅に電話があった。「このホテルから抜け出して明日、湘南で波乗りしたいから夕食後に迎えに来てくれないかな?」という。「そこは成田市内だから千葉の海の方が近いよ」と伝えると「マサ*5 の友達のシェイパーが湘南で待っててくれる」といって人の話を聞かない。仕方がないのでクレイグと当時の相棒キース・ウォーレス*6 を自慢のピックアップで迎えに行き、自宅の居間で数時間仮眠させた。ただ、次の朝には仕事が入っていたので湘南まで送りとどけることはできず、始発で下北沢駅から片道キップを買い与え「いい波にあたるといいね」と言った後に湘南のシェイパー氏に電話をして、最寄り駅までの出迎えを頼んだ。当然、朝食時に成田市内のホテルでは国内総代理店の担当がふたりを探したが、なんと昼過ぎに髪の毛を濡らしたまま、何食わぬ顔で両者とも戻って来たそうだ。

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スペシャルスノーボード LEGEND The Riding of Craig Kelly (レンタル専用版) [DVD]

雪崩に巻き込まれ他界

2003年1月21日(火)カナダのブリティッシュ・コロンビア州にあるレベルストークエリアにて幅約30メートル、
長さ約100メートルの雪崩が突如として発生し、カナダ人(4人)とアメリカ人(3人)の合計7人の尊い命を奪った。
そのグループには伝説のスノーボーダーCraig Kelly(クレイグ・ケリー)も居た。

 

15年以上もの間、クレイグ・ケリーはスノーボーディングというスポーツにおいて素晴らしい軌跡を残した。
クレイグのキャリアは最近バックカントリーのガイドへと発展し、そのベース地として主にブリティッシュ・コロンビアで活動していました。

先週末クレイグはスキーヤーとライダーのグループをブリティッシュコロンビアのレベルストークエリアでガイドしていました。
このグループが雪崩に巻き込まれたのです。悲劇的にもクレイグ・ケリーとその他の6名は助かりませんでした。

Jake Burton(ジェイク・バートン)は、
「このスポーツにおいて、そして私たちみんなにとってもこれ以上大きなロスは考えられない」と言っています。
「クレイグはコアそのものだった:4回もの世界フリースタイルチャンピオンに輝き、
彼のやり方でこのスポーツを支配してきたことは偉大な業績だが、
こうした競技の世界を引退しバックカントリーガイドへと進んで行ったことのほうが彼のことを更に物語っているだろう。
彼はチームライディングにプロ精神を持ち込み、その後彼の人生をこのスポーツに捧げることで彼の情熱を表現した。
クレイグは我々が彼自身だけでなくその他の犠牲者に対しても敬意を払うことを望んでいるだろう。
クレイグにとって彼らが巻き込まれてしまったことは、彼のパートナーのサヴィナと娘のオリビアを残していくことと同様に、
非常に辛いことであっただろうと私は確信している。」

「僕は1989年にクレイグに出会った。彼に会うまで僕は彼に刺激されていた。
やっと彼に出会った時、彼は最高の手本となる人だった。
彼は常に僕や他の友達の良い助言者となってくれた。
スノーボードのことだけでなく、彼のライフスタイルや山への愛情など全てを教えてもらった。
僕は彼以上にマウンテンライディングを愛している人を知らない。
そして彼ほどのスタイルと、優雅さを持って山をライディングするライダーも知らない。
クレイグは僕たちを置いていってしまったが、彼は今でも最高の助言者だ。」とTerje Haakonsen(テリエ・ハーコンセン)は語っています

スノーボードは楽しい反面、自然を利用したスポーツとなっているのでリスクは当然大きなものになると予想できます。

 

Craig Kelly

クレイグ・ケリー 1966年4月1日生まれ、アメリカ・ワシントン州出身。ワシントン州立大学薬科専行。ワールドカップを転戦していたクレイグは、商業主義になりつつあったスノーボード界から独自の距離を置くことになる。カナダBC州のアイランド・レイク・ロッジでフリースキーヤーのスコット・シュミットとガイドカンパニーを共同経営。最後はボールドフェイスをホームマウンテンとし、2003年1月20日、レベルストークで雪崩事故で死去

 

 

今日はこの辺で。