【レジェンドスノーボーダー】テリエ・ハーコンセン
サトが最初に「テリエ・ハーコンセン」を知ったのは2001年から2008年まで、毎年12月の土日に東京ドームで行われていた世界最大級の屋内スノーボード競技会。X-TRAIL JAM(エクス-トレイル・ジャム)でした。
1989年にスノーボードを始めた翌年、ヨーロッパ選手権に出場したのをきっかけにワールドカップを転戦。少年独特の軽い身のこなしと驚異的な高さのエアをパイプで連発した。2005年にはスノーボード界最初の劇場映画作品『FIRST DESCENT』に主演。
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90年代前半までは、ワールドカップで名を挙げてからビデオ撮影に移行するのが常道だった。最初からBURTONの手厚いサポートを受けたテリエは89年のADVENTURE SCOPE FILMの「BOARD WITH THE WORLD」にさわり程度で出演。
これ以降は92年にデイブ・シオーネ監督の名作『ROADKILL』にジェイミー・リン、ブライアン・イグチ、ジョン・カーディエル、マイク・ランケットらと共演。この後、94年にVOLCOMの『THE GARDEN』、96年には主演作『SUBJEKT HAAKONSEN』。05年にはスノーボード界最初の劇場版映画『FIRST DESCENT』に主演した。この間、ワールドカップやUSオープン、AIR & STYLEで軒並み優勝し、98年の長野五輪ではノルウェー代表選手に選考されるが「スノーボードは個人のスポーツであって、“国対抗”の意味合いの強いオリンピックには賛成できない」と表明し、業界を彷彿とさせた。ただ単に変わり者であったわけではなく、彼の考える「自由なスノーボードの在り方がスポーツを魅力的に発展させる」という趣旨が、最終的に自国でのTHE ARCTIC CHALLENGE(以下TAC)*3 開催へと繋がった。同時にスノーボード独自のレースとしてマウント・ベイカーのLEGENDARY BANKED SLALOMにも参戦し、ここでも驚異的な記録を残している。
特定の団体や組織に固執せず、既成概念を否定する代わりにTACを主体に、当初TICKET TO RIDE(TTR)の名称でTACを最終戦に見据えた、独立した競技会を世界中から集め、これが後のTTRとなり、現在のWORLD SNOWBOARD TOURとなっている。
最後に面白いエピソードをひとつ。ISF公認ワールドカップを転戦しはじめて数年。北海道・ルスツで開催された大会後に都内で1泊するという晩、当時、六本木でアツかった外国人バー「GAS PANIC」で日本最後の夜を満喫していた。連中は日本の代理店がおさえたホテルへ宿泊することなく、始発まで飲み明かしたという。僕は一旦、自宅に戻ってヨーロッパへ帰るというトミー・トイネネン*4 とヤコブ・ソダークエスト*5 らと成田空港で待ち合わせし、帰途を見送る約束だった。空港のチェックインカウンターに朝8時前にどうにか到着すると、トミーとヤコブはボロボロの状態でどうにか立っている。ふとカウンター奥のベンチに目をやると、ホテルから拝借したであろう白い羽毛の枕を敷いてテリエが熟睡している。3人で起こして何便か尋ねると“21時発”と印字された
チケットを見せてきた。スウェーデン人のヤコブが「これ夜の便じゃん!」と諭す。すると、チケットをチラ見して、そのまま熟睡してしまった。
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テリエ・ハーコンセンの映像
最後に
USオープンで3回の優勝。ヨーロピアン・ハーフパイプ・チャンピオンシップで5回の優勝。マウント・ベイカーのバンクドスラロームで6回の優勝。1998年の長野オリンピックから不参加を表明し、アークティック・チャレンジを自ら主催しているテリエ
まさに生きる伝説となっている人ですね。今回は知っておくべきレジェンドは「テリエ・ハーコンセン」でした。
今日はこの辺で。